はじめに
ホテルのロビーやカフェでは、トランペット奏者マイルス・デイヴィスのレコードや、気だるいボサノヴァ(ジャズの香りがするブラジルの軽音楽)がよく流れている。わざわざ耳を傾けている人はいない。それでもこの音があるだけで、その場所はきちんとして見え、くつろいだ、趣味のいい空間になる。いまジャズと聞いて多くの人の頭に浮かぶのは、「高級」という二文字だろう。
ところが百年前、ジャズの評判はまるで逆だった。1921年8月、アメリカの『レディース・ホーム・ジャーナル』誌に「ジャズはシンコペーションに罪を持ち込んだのか?」という題の記事が載っている。シンコペーションはジャズのもっとも典型的なリズムの手法で、本来は弱い拍にアクセントを置く。
当時、多くのまっとうな家庭から見れば、ジャズは娼館や酒や深夜のダンスホールと同類で、子どもを近づけてはならないものだった。歴史家ニール・レナードは当時の新聞や雑誌を調べ、伝統を守ろうとする人々がジャズを粗野で下品だと罵り、その歌詞は「不道徳な考えを薄く覆い隠している」と非難していたことを見いだしている。

その後の百年で、ジャズの評判はひっくり返った。とはいえ、罪深いというのも高級だというのも、人々が貼りつけたレッテルであって、音楽そのものとはあまり関係がない。
では、レッテルはどうやって貼られたのか。
社会学者ハワード・ベッカーに、とても役に立つ考え方がある。ある行為が「逸脱」(つまり決まりを破ったと認定されること)と呼ばれるのも、ある作品が「芸術」と呼ばれるのも、人々の相互作用の結果だというのだ。
レッテルが誰に、どのように貼られたのかを見るほうが、ものそのものを見るよりも多くを語ってくれる。本稿ではベッカーの視点を借り、フランスの社会学者ブルデューの趣味をめぐる研究と、何人かのジャズ史家の成果を加えて、レッテルを一枚ずつはがしてみる。誰が貼ったのか、なぜ貼ったのか、はがしたあとに何が残るのか。
私の考えでは、ジャズそのものに高級なところなど何もない。聴いているときに感じる確かな楽しさのほうが、どんなレッテルよりも大切である。
一、ダンスフロアを離れて
非難の声はそう長くは続かず、ジャズの評判は少しずつよくなっていった。レナードによれば、1920年代にジャズに反対するか受け入れるかは、その人の価値観とほぼぴったり重なっていた。保守的な人ほど反対し、ジャズを受け入れる人は古い決まりごとも捨てようとしていることが多かった。古い決まりごとがゆるむにつれ、ジャズもしだいに体面を得ていった。
この時期の「体面」は、主に一部のバンドリーダーがジャズを交響楽の側に寄せたことによる。早くも1923年には、評論家ギルバート・セルデスがバンドリーダー、ポール・ホワイトマンの「シンフォニック・ジャズ」を引き合いに出し、ジャズもまっとうな芸術になりうると論じている。
シンフォニック・ジャズとは、ジャズに弦楽器を加え、大がかりな編曲を施して、コンサートホールの音楽らしく聞こえるようにしたものだ。1930年代の終わりには、ジャズを公然と罵る人はほとんどいなくなり、芸術として聴く人が増えはじめた。
1938年、当時もっとも人気のあったバンドリーダーでクラリネット奏者のベニー・グッドマンが、楽団を率いてニューヨークのカーネギー・ホールに乗り込んだ。クラシック音楽の殿堂である。
もっとも、グッドマンのような楽団がカーネギー・ホールに出るのはたまのことで、本当の持ち場はダンスホールだった。1930年代と40年代初めのアメリカでいちばん流行していた音楽はスウィングである。リズムは軽快で、ぐいぐいと前に進み、踊るのにうってつけだった。
演奏したのは「ビッグバンド」だ。一つの楽団に十数人、サックス、トランペット、トロンボーンがそれぞれセクションを組み、そこにピアノ、ベース、ギター、ドラムが加わる。グッドマンもカウント・ベイシーもデューク・エリントンも、こうしたビッグバンドを率いてダンスホールで演奏し、フロアでは数百人、ときに千人を超える人々がリンディ・ホップを踊った。ハーレムで生まれたテンポの速いペア・ダンスである。当時のジャズはアメリカのポピュラー音楽そのもので、何よりもまずみんなを踊らせるための音楽だった。

フロアで踊る人々にとっては最高の時代だったが、ステージの上のミュージシャンは必ずしもそう思っていなかった。ビッグバンドの譜面は専門のアレンジャーがあらかじめ書き、十数人がそのとおりに演奏する。ソロの番が回ってきても、たいてい数小節で終わる。仕事は安定し、収入もそれなりにあったが、自分の腕をふるう余地はほとんどない。どれほど考えのあるミュージシャンでも、ステージでは楽団の歯車の一つにすぎなかった。
1940年代初め、譜面どおりに演奏するだけでは満足できない若いミュージシャンたちが現れた。ビッグバンドの仕事が終わると、彼らはわざわざ場所を探し、自分たちの考えで演奏した。そうした場所はいくつかあったが、もっとも有名なのはニューヨーク・ハーレムのミントンズ・プレイハウスである。このクラブは1940年の暮れ、元ビッグバンド・リーダーのテディ・ヒルが経営を引き継いだ。ヒルはドラマーのケニー・クラークにハウスバンドを組ませ、ピアノはセロニアス・モンクが務めた。アルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーやトランペット奏者のディジー・ガレスピーらもよく顔を出し、夜明けまで即興を続けた。

彼らがそこで生み出した音楽は、のちにビバップと呼ばれる。テンポは猛烈に速く、和音は密で入り組み、旋律は激しく上下し、編成はわずか四、五人になった。これでは踊れない。聴き手は腰を下ろし、目をステージに向け、耳でソロイストを追うしかなかった。
ダンスフロアを離れてビバップが生まれたことがジャズの決定的な転機だとすれば、その最大の変化は、音楽をつくる出発点にあった。スウィングはダンスフロアに向けられ、踊る人が楽しければそれでよかった。ビバップはミュージシャン自身に向けられ、腕前と発想を極限まで発揮することを求めた。音楽はもともと役に立つ道具だったが、ビバップに至って、一人の人間が人前で自分を表現する手段になったのである。
哲学者ハンナ・アーレントは人間の営みをいくつかに分けた。そのうちの二つが、ちょうど比べるのに使える。一つは「仕事」で、設計図どおりにものを作り、人に使ってもらう営みである。
もう一つは「活動」で、他者の前で自分が何者であるかを示す営みであり、その結果はあらかじめ設計できない。ビッグバンドの編曲は前者に近く、ビバップの即興は後者に近い。
この歴史を振り返って、ジャズ史家の多くはビバップを分水嶺とみなしている。バーナード・ジェンドロンは、ビバップこそがジャズを娯楽音楽の領域から引き離して芸術音楽へと向かわせ、以後ジャズはアメリカ文化のなかでほとんど「神聖な」地位を得たと述べる。スコット・デヴォーはもっと率直だ。のちに書かれたジャズ史において、ビバップは「要石」であり、「ビバップによって、ジャズはついに芸術音楽になった」のだという。
二、芸人であることを拒む
ビバップのミュージシャンが変えようとしたのは、音楽だけではない。ステージ上での自分たちの立場もそうだった。
当時、黒人ミュージシャンがステージに上がると、愛嬌のある役回りを演じることを求められることが多かった。満面の笑みを浮かべ、おどけてみせ、白人の観客を楽しませるのである。アメリカの娯楽産業には、この点で長く、そして恥ずべき歴史がある。ビバップの世代はこれをひどく嫌った。彼らはスーツを着てベレー帽をかぶり、ステージではひたすら演奏し、観客にはあまり愛想を見せなかった。マイルス・デイヴィスはのちに、他のメンバーのソロのあいだ観客に背を向けることもよくあった。

黒人ミュージシャンはステージで愛想笑いを強いられ、ステージを降りてもあらゆる場面で制約を受けた。当時のアメリカ南部では人種隔離が法律で定められ、黒人と白人は食事の場所も乗り物の座席も分けられていた。巡業に出たミュージシャンは、あるホテルで演奏しながらそのホテルには泊まれず、裏口から出入りするしかないこともしばしばだった。北部には明文の規定こそなかったが、似たような冷遇は珍しくなかった。
1950年代になると、公民権運動が人種隔離の撤廃を求めはじめ、ミュージシャンたちもその訴えを音楽に込めた。「自由」という言葉がそのままレコードのタイトルになった。テナー・サックス奏者ソニー・ロリンズは1958年に Freedom Suite(『自由組曲』)を発表し、ジャケットに一文を寄せている。おおよそ、アメリカの文化は黒人の文化に深く根ざしているのに、黒人はいまだに迫害されている、という内容だ。ドラマーのマックス・ローチが1960年に録音した We Insist! Freedom Now Suite のジャケットは、ランチ・カウンターで座り込みの抗議をする黒人の若者たちの写真である。彼らにとって、人の娯楽の道具になることを拒むのと、人間としての尊厳を求めるのとは、もともと同じことだった。
ミュージシャンにとって、尊厳は勝ち取らねばならないが、食べていかなければならないのも事実だ。このジレンマをいちばんはっきりと見ていたのが、社会学者ベッカーである。彼は若いころシカゴの酒場でピアノを弾いていた。1948年と1949年の二年間、演奏をしながらフィールドワークを行い、その成果はのちに『アウトサイダーズ』の第5章になった。彼が描いたのは主に、酒場やダンスホールで生計を立てるごく普通のミュージシャンたちで、彼らの心はジャズに向いていた。彼らは自分たちのような通をヒップ(hip)と呼び、わかっていない客をスクエア(square。保守的で退屈な人を指すスラング)と呼んだ。彼らに言わせれば、スクエアは音楽がわからず、リクエストするのは俗っぽい曲ばかりで、しかも演奏の仕方にいちいち口を出したがる。だが困ったことに、金を持っているのはそのスクエアのほうなのだ。耳に合わなければ次は来てくれないし、店主もバンドを替えてしまう。
こうしてミュージシャンのあいだには、ひどくねじれた心理が生まれる。金はもらう、だがおまえにはわからないのだから、おれを評価する資格はない。経済的には主導権を握れないから、せめて心のなかで意地を取り戻すのである。ジャズのエリート意識は、こうした人に従わざるをえない境遇のなかで育った。聴き手なしではやっていけないミュージシャンほど、自分と聴き手のあいだに壁を築こうとした。
この壁はステージの上にも築かれていた。ミントンズについては、よく知られた話がある。ステージのミュージシャンたちはわざと難しいコード進行や猛烈なテンポ、めったに使わない調を選び、腕が足りないのにステージに上がってにぎやかしに加わろうとする者を締め出したという。ヒップとスクエアの境界線は、はじめからビバップの一部だったのである。
金はもらうが、金を出す人間は見下す。こうした心理は芸術の世界では珍しくない。フランスの社会学者ブルデューはこれを「逆さまの経済世界」と呼んだ。独立を重んじる芸術の世界では、よく売れるものほどかえって疑われ、市場に受け入れられないことがむしろ潔白の証のように扱われる。だからミュージシャンの世界でいちばんきつい悪口は、「魂を売った」なのだ。
ミュージシャンはスクエアを壁の外に締め出し、主流社会もまたミュージシャンをよそ者として扱った。ベッカーの本の題名『アウトサイダーズ』には、ちょうどこの二重の意味がある。主流社会から見れば、昼に眠って夜に動き、決まりを守らないミュージシャンたちがアウトサイダーだった。ミュージシャンから見れば、音楽もわからないのに口を出してくるスクエアこそが本当のアウトサイダーだった。
大衆の想像のなかで、この「アウトサイダー」たちは危険で、しかも魅力的だった。ポール・ロペスは1930年代、40年代、50年代、そして60年代初めの小説や映画、報道を調べ、そこでジャズが階級、人種、都会を象徴していたこと、ミュージシャンがロマンティックな反逆者であると同時に危険な逸脱者でもあったことを見いだした。こうした物語はほぼ決まって悲劇で終わり、主流の規範はその結末を通じてあらためて確かめられたのである。
三、ジャズの代弁者たち
ミュージシャン自身が「これは芸術だ」と言っても、社会が認めるとはかぎらない。実際にジャズを持ち上げたのは、ジャズに代わって語った大勢の人々だった。
ベッカーはのちに『アート・ワールド』という本を書き、まさにこの問題を論じている。彼によれば、芸術はつねに大勢の人々が力を合わせてつくりあげるものだ。作曲する人、演奏する人、楽器をつくる人、場を開く人、レコードを出す人、批評を書く人、学校を運営する人、資金を出す人、そして聴き手がそろって、ある作品ははじめて芸術と呼ばれる。批評家や美学者の仕事は、それがなぜ芸術なのかを人々に説明することである。ジャズのたどった道は、ほとんどこの本の注釈として読めるほどだ。社会学者ポール・ロペスはこの「アート・ワールド」という概念を借りて、ジャズがいかにして芸術になったのかを一冊まるごと論じている。
最初に動いたのは批評家たちだった。1930年代、フランスの批評家ユーグ・パナシエが『Le Jazz Hot』(1934)を書いた。ジャズを真剣な音楽として論じた最初期の本の一つである。もう一人の批評家シャルル・ドローネーは、初期のもっとも重要なジャズ・レコード目録(1936)を編んだ。ヨーロッパの人々がジャズを本格的に研究しはじめたのは、アメリカ人より早かったのである。アメリカでは、1934年にシカゴで創刊された『ダウン・ビート』誌が、ジャズを語るための一揃いの言葉を少しずつ積み上げていった。どのミュージシャンが重要か、どのレコードが必聴か、どんなソロがすぐれているのか。

では、この批評家たちはどんな人々だったのか。
ジョン・ジェナーリはアメリカのジャズ批評史を著している。彼によれば、20世紀半ばにもっとも影響力のあった批評家たちには、エリート教育を受けたレコード・コレクターが少なくなかった。マーシャル・スターンズ、ナット・ヘントフ、バリー・ユラノフ、マーティン・ウィリアムズらがそうである。彼らは商業化したファン文化を見下し、形式と美学を重んじる書き方でジャズ史を綴った。ジャズがリベラル・アーツ教育に象徴される文化の殿堂に入るにふさわしいことを証明するためである。ロペスもまた、1930年代に「まっとう」を自任した愛好家たちの姿を描いている。彼らは「本物の」ジャズを脅かされた真剣な芸術とみなし、それを認めないクラシック界を責める一方で、ジャズに商業化を強いるレコード業界を責め、聴き手の無知を責め、魂を売ったスウィングのミュージシャンを責めた。
1940年代、批評界では二つの論争も起きた。まずスウィングの支持者と、ニューオーリンズの「リバイバル派」(1920年代ニューオーリンズの古いスタイルのジャズに立ち返ろうと主張した人々)が罵り合った。『メトロノーム』誌は1942年、リバイバル派に「かびの生えた骨董品」(moldy figs)というあだ名をつけている。ビバップが登場すると、それを支持する批評家たちが、今度はその両派の双方と論争になった。ジェンドロンは、これらの論争が新しい美学の言葉を生み、そのおかげでビバップは前衛芸術として理解されうるようになったと考える。言い換えれば、批評家の言説そのものが、ジャズの格上げに加わっていたのである。
デヴォーはさらに踏み込む。いま教科書で読むジャズ史では、ニューオーリンズ、スウィング、ビバップ、クールとハード・バップ、フリー・ジャズとフュージョンと、時代ごとのスタイルが順に並べられ、まるで家系図のようになっている。デヴォーによれば、この家系図はあとから書かれたものだ。ジャズが支援を得るには「文化資本」を蓄える必要があり、ジャズが「自律した芸術」であることを証明する家系図は、まさにそのために役立った。家系図に誰を入れ、誰を外すかも選別されている。1950年代、ジャズはクラシックに近づこうとし、その代償としてアフリカ系アメリカ人的な特徴の一部を切り捨てた。
批評家たちが家系図を書き上げると、今度はさまざまな機関がそれを教室や音楽祭に迎え入れた。1947年、北テキサスの大学に初めてジャズの学位課程が設けられ、ジャズには教科書も単位もできた。1954年にはロードアイランドの富裕層の避暑地でニューポート・ジャズ・フェスティバルが始まり、ジャズは上流社会の芝生の上に立った。ジェナーリが1950年代を扱った章の題はそのものずばり「高級なグルーヴでスウィングする」(Swinging in a High-Class Groove)で、ジャズが教育と上流の娯楽のなかで「新たな主流の体面」を勝ち取っていく過程を描いている。
さらに時代が下ると、国家も乗り出してきた。1956年以降、アメリカ国務省はディジー・ガレスピー、ルイ・アームストロング、デイヴ・ブルーベックらを世界各地のツアーに送り出し、ジャズでアメリカの自由と活力を示そうとした。冷戦のなかの文化外交である。
スターンズのような批評家もまた、ジャズを「アメリカの人種を超えた民主主義の勝利」として語りたがった。1987年、アメリカ議会はジャズを貴重な国の宝とする決議を採択した。同じ年、ニューヨークのリンカーン・センター(アメリカでもっとも重要な舞台芸術センターの一つ)がジャズのコンサート・シリーズを始め、1996年にはジャズ・アット・リンカーン・センターが正式な構成団体となって、ニューヨーク・フィルやメトロポリタン・オペラと肩を並べた。
1997年、トランペット奏者ウィントン・マルサリスのジャズ・オラトリオ Blood on the Fields がピュリッツァー賞音楽部門を受賞した。ジャズ作品としては初の受賞である。デヴォーは、ジャズが学位や資料館や研究所を手にしたことで「別種の音楽」になり、街角のポピュラー音楽からどんどん遠ざかっていったと注意を促している。
この数十年のあいだ、パーカーやモンクの録音は一音たりとも変わっていない。変わったのは、その録音を取り巻く人々のほうである。歴史家ローレンス・レヴィーンが、よく似た話を書いている。19世紀のアメリカでは、シェイクスピアもオペラも本来は庶民の娯楽で、観客は野次を飛ばし、喝采を送り、役者にもう一度やれと叫んだりもした。それがしだいに「祭り上げ」られていく。劇場は静まり返り、入場料は上がり、高級文化になった。ジャズもまったく同じ道をたどった。ダンスフロアを離れ、コンサートホールに入り、観客は行儀よく座って聴くようになったのである。
ロペスは、ジャズの格上げをこの流れにつなげている。19世紀末にエリートが引いた高級と大衆の線引きこそ、のちにジャズがくぐり抜けようとした門だった。
ここからわかるのは、音楽そのものが複雑で、技巧が高度だというだけでは、持ち上げられはしないということだ。プログレッシブ・ロックにも変拍子や大がかりな構成があるが、主流の批評家たちには気取っていると嫌われた。ヘヴィメタルの演奏は恐ろしく難しいのに、1985年にはアメリカ上院の公聴会に引っ張り出された。逆に、作曲家ジョン・ケージの『4分33秒』(1952)は最初から最後まで一音も鳴らないのに、しっかり音楽史に書き込まれている。ある音楽が最終的にどんなレッテルを貼られるかは、結局のところ、その周りにどんな人々が立っているかで決まり、音楽そのものの良し悪しとはあまり関係がない。
公平を期すために言っておかねばならないこともある。ロペスは、ジャズが芸術としての地位を求めたことは黒人ミュージシャンが尊厳を求める過程でもあり、エリート主義と人種主義による文化の序列への「重大な一撃」だったと考えている。この面は本物だ。ただ、「芸術」という名分が消費社会に引き継がれると、話は変質していく。それが次の節の主題である。
四、いまの高級感
いまでは、ジャズが高級だというのはほとんど共通認識になっている。ジャズを聴くと人に話せば、かなりの確率で「趣味がいいね」と返ってくるだろう。けれども「芸術」と「高級」のあいだにはまだ一歩の隔たりがあり、その一歩が踏み出されたのは、多くの人が思っているよりも遅い。
1980年代:ジャズは豊かさの記号になった
映画研究者クリン・ギャバードは、1980年代初め以降、映画や広告のなかでジャズが優雅さや豊かさを表すことがどんどん増えたと指摘している。それ以前のジャズには、ほとんどそうした意味合いはなかった。
音楽学者ジャスティン・ウィリアムズは、1980年代の証拠をずらりと並べてみせる。マルサリスは1983年と1984年、いずれも同じ年にジャズとクラシックの両部門でグラミー賞を獲得した。人気シットコム『コスビー・ショー』はジャズを黒人の中上流家庭と結びつけた。チェース・マンハッタン銀行、アメリカン・エキスプレス、インフィニティ、ダイエット・コークの広告はジャズを使ってまっとうで豊かな暮らしを表し、YSL は1988年に JAZZ という名の男性用香水まで発売した。そして日本のアニメ『カウボーイビバップ』のジャズのサウンドトラックがある。
1990年代初めになると、ア・トライブ・コールド・クエストのようなヒップホップ・グループが作品にウッドベースや管楽器を取り入れ、批評家たちはすぐさま彼らを「より知的だ」と褒めそやした。これで、ストリートの暴力を歌うギャングスタ・ラップとのあいだに上下の差がつけられたのである。
ウィリアムズの結論はこうだ。こうしたジャズの音は、ラップのなかで「階級の記号」になった。ジャズがひとたび記号になれば、誰でもそれを使うことができる。いまの高級感はここから育ってきた。よく見ると、その出どころは二つある。一つは借りもの、もう一つは仲間うちのものだ。
借りものの高級感
たいていの人が感じる高級さは、ジャズが流れている場所から来ている。ホテルのロビー、スペシャルティ・コーヒーの店、ワインバー、マンションの広告。こうした場所はジャズが数十年かけて蓄えた評判を借り、そこに腰を下ろした客は、今度はその場所から少しばかりの評判を借りていく。高級ブランドがやっているのも同じことだ。
2025年のある研究は、#luxurybrand のタグがついた Instagram の投稿2,000件を集計した。音楽がつけられた884件のうち、ジャズは37.1%を占め、著者たちが分けた五つのジャンルのなかでもっとも多かった。
こうした音楽の借用は、実際にとてもよく効く。1993年、二人の消費者研究者がワインを売る店で実験を行った。店内にクラシック音楽を流すと、客は明らかに高いワインを選んだ。
1997年の『ネイチャー』誌に載った研究の結果はもっと直接的だ。店内でフランスのアコーディオン曲を流すとフランスワインがよく売れ、ドイツのビアホールの音楽に替えるとドイツワインがよく売れた。
シドニーのレストランで行われた実験では、ジャズを流したとき、客がメインディッシュに払ってもよいと考える金額はクラシックを流したときと同じで、どちらもイージーリスニングを流したときや音楽を流さなかったときより高かった。BGM は音もなく、人々がある場所やある商品をどう見るかを変えてしまうのである。
フランスの哲学者ボードリヤールは(著書『消費社会の神話と構造』をおすすめしたい)、人がお金を払って買うのは、もの自体に加えて、そのものの背後にある意味でもあると述べた。一杯のコーヒーにトランペット奏者で歌手のチェット・ベイカーの歌を添えれば、売られるものに「趣味のよさ」がひとつ加わる。
皮肉なことに、こうした場所でジャズはふたたび道具になった。かつてビバップは、ダンスの伴奏という道具の身分を必死で振り払おうとした。数十年後、ジャズは雰囲気を盛り上げる BGM になった。ただし今回仕えている相手は消費主義である。
中国では、さらにもう一枚の光が重なる
ジャズが上海に入ってきたとき、それはもともと贅沢品だった。1930年代の上海には五、六十軒のダンスホールがあり、その多くはホテルのなかにあった。地元にはジャズ・ミュージシャンがほとんどいなかったため、ダンスホールは外国のバンドを雇うしかなく、租界にやってきた外国人ミュージシャンは延べ五百人を超えた。
最高級のダンスホールには百楽門、仙楽斯、逸園があり、いずれも一流のバンドを招いていた。たとえば逸園に専属で出演していたのは、アメリカのトランペット奏者バック・クレイトンと彼のハーレム・ジェントルメンである。
上海のダンスホール史を研究するアンドリュー・フィールドは、ドイツの思想家ベンヤミンの言葉を借りて、租界にあった華やかで異国情緒あふれるダンスホールを「モダニティの夢の世界」と呼んでいる。
当時の中国にも、これを快く思わない人々はいた。民国期の批評家たちは、作曲家黎錦暉のジャズの香りがする時代曲(当時の上海で流行した北京語の歌謡曲)を「黄色音楽」と呼び、左右の両派がそろって罵った。この罵り方は、アメリカの1921年の「罪」の記事とほとんど同じ調子である。1934年に国民政府が新生活運動を始め、社会の風紀の引き締めを唱えると、新聞や雑誌ではダンスが国を害するかどうかが論じられた。ダンスホール業界は、チャリティーのダンス・コンテストを開き、国産品を使い、中国語の歌を歌うことで、ダンスも愛国的でありうることを証明するしかなかった。

数十年後、上海に戻ってきたジャズは、ふたたびホテルに住みついた。2000年代半ばには、上海のジャズの店の何軒かがヒルトンやポートマン・リッツ・カールトンといった高級ホテルのなかにあり、もっとも古株なのは外灘の和平飯店のジャズ・バーだった。
ジェームズ・ファーラーとアンドリュー・フィールドは上海のナイトライフを研究し、次のように指摘している。いまの上海のジャズ・シーンは主に国際的なモダン・ジャズに由来し、地元の伝承とはあまり関係がない。それでも「上海ジャズ・エイジ」の物語がこのシーンに家柄を与えている。その「本物らしさ」は、半分はこの都市の文化が混ざり合ってきた現実の歴史に、半分はその歴史の神話に支えられている。いまでは「老上海」や「民国風」を掲げる店で、ジャズはほとんど定番になっている。借りているのは、まさにこの家柄だ。二人はおもしろい対照にも触れている。同じく1930年代のダンスホールから出てきた社交ダンスは、1990年代には労働者階級の娯楽になり、とうに輝きを失っていたが、ジャズは輝きを保ちつづけたのである。
仲間うちの高級感
もう一つの高級感は、本当に時間をかけて聴く人たちのものだ。
ブルデューは『ディスタンクシオン』で、趣味が人をいくつもの集団に分けると述べた。ある芸術がわかるようになるには時間と知識と、それにふさわしい育ちが要る。だから人が何を好むかは、しばしばその人の出自と教養をにじませる。
この枠組みで見ると、ジャズはちょうどあらゆる条件を満たしている。ダンスフロアを離れたので、誰もが踊れる音楽ではなくなった。聴いて理解するには、曲の形式やスタンダード曲、ミュージシャンどうしの師弟関係を知っていなければならない。かつてミュージシャンがステージで引いたヒップとスクエアの境界線も、そのまま、わかる人とわからない人の境界線になった。
これはデータにも表れている。全米芸術基金の1992年の調査によれば、ジャズのライブの観客のうち大卒者は49%を占めたが、成人全体では24%にすぎなかった。
世帯年収5万ドル以上の人は成人の19%しかいないのに、ジャズの観客では32%を占めた。この報告書を書いたデヴォーは「文化資本」という言葉をそのまま使っている。ジャズは大学の音楽学部やコンサートホールに住まいを得て、ジャズがわかることはアメリカの文化資本の一部になりつつある、と。
同じ報告書には逆向きの数字もある。黒人の成人の54%がジャズを好きだと答えたのに対し、白人は32%だった。ジャズは完全にエリートの専有物になったわけではない。
日本はもう一つのサンプルだ。日本のジャズ史を研究するE・テイラー・アトキンズは、ジャズ喫茶(ジャズのレコードを聴かせるための喫茶店)が神殿のようで、客はおしゃべりを許されず、静かにレコードに耳を傾けていたと書いている。ジャズが大衆娯楽をやめて芸術音楽になると、ファンの階層もそれにつれて上がっていった。アトキンズはまた、戦前の日本のミュージシャンが上海で働いて帰国すると、格がぐんと上がったことにも触れている。東アジアにおけるジャズの家柄は、はじめから「世の中を見てきた」ことと結びついていたのである。
社会的アイデンティティ理論は、このことの別の面を言い当てている。人は「われわれ」と「彼ら」を分けることで、はじめて自分が何者かを知る。ケンブリッジ大学の心理学者たちが行った研究では、被験者にさまざまな音楽のファンがどんな人かを推測させたところ、皆の印象はかなり一致していた。
研究者たちは、こうしたステレオタイプは社会的に構築されたもので、音楽の好みはバッジのように、自分が何者かを人に伝えるために使われると考えている。おもしろいことに、このイギリスの研究で「白人の上流階級」と結びつけられていたのはクラシックで、ジャズのファンは親しみやすく情緒の安定した人とみなされただけだった。「ジャズ=高級」というレッテルは、場所によって貼られ方が違うのである。
この帰属意識は仲間を見つける助けになる。けれども借りものの高級感と同じく、これもまた中身のないものだ。音楽を聴くことはしだいに態度表明になっていく。わかっていないと見抜かれるのが怖くて、好きでもないレコードを無理して聴く人がいる。ジャズの話になると、まず誰がより多くの名前を知っているか、より細かい版の違いを知っているかを競い合い、本当に聴き込んでいる部分はかえって少なくなってしまう。
二つの高級感はどう押し合うのか
この二つの高級感は、互いに押し合いながら進んでいく。借りものの高級感がジャズを街の隅々にまで行き渡らせると、「ジャズを聴く」というだけでは誰が誰だか区別がつかなくなる。そこで仲間うちの人々は境界線を内側に引き直す。まずどのアルバムを聴いているかを競い、次にどのテイクか、どのプレスかを競うのだ。
社会学者ジンメルは1904年に「流行」という論文を書き、まさにこうした循環を論じた。上層の人々はある趣味によって自分を他人から区別し、大衆がそれを真似ると、上層はまた別の趣味に乗り換える。ジャズの高級感も、ずっとこうして流れつづけてきた。かつてミントンズに築かれたヒップとスクエアのあいだの壁は、この八十年、誰かの手でずっと積み直されてきたのである。
むすび:レッテルをはがしたあとに
この百年を振り返ると、ジャズの高級感は一枚ずつ重ねて貼られてきたものだとわかる。人に従わざるをえない境遇のなかでミュージシャンが守り抜いたささやかな自尊心。批評家が書き上げた家系図。学校や音楽祭や国家のお墨付き。1980年代の広告が描いた豊かさのイメージ。消費の場による借用。そして仲間うちの帰属意識。中国では、さらに老上海の家柄が加わる。どの一枚も確かに起きたことだが、音楽そのものが持ち込んだものは一枚もない。
だから、ジャズに高級なところなど何もない。ほかの音楽と同じで、いいものもあれば、そうでないものもある。夢中になって聴く人もいれば、どうにも耳に入ってこない人もいる。どちらもごく当たり前のことだ。
これらのレッテルをはがしたあとに残るものこそ、いちばん大切にすべきものである。聴いているときの、あの楽しさだ。ビバップがかつて人の心を動かしたのは、数人がステージに立ち、同じコード進行の上で即興し、一人ひとりが他者の目の前で自分自身になっていくからだった。それが聴き取れて、つられてうれしくなる。それで十分であり、それを使って自分が何者かを証明する必要などない。

試してみたいなら、スタンダード曲を一つ選んでみるといい。たとえば Body and Soul。ほとんどすべてのジャズ・ミュージシャンが演奏してきた古い歌である。まず、上の写真のテナー・サックス奏者コールマン・ホーキンスによる1939年の演奏を聴き、次にサックス奏者ジョン・コルトレーンが1960年に録音した演奏を聴く。同じ曲、二人の奏者、二つの姿。その違いを聴き分けるほうが、それが「高級」だと知っているよりずっとおもしろい。
ここに出てきた名前をたどって聴いてみたいなら、音楽ジャンルマップを開いてみてほしい。ジャズのノードのまわりに、ビバップ、クール・ジャズ、ハード・バップといったジャンルが並び、多くのジャンルに必聴盤が添えてある。
最後に、本稿で触れた本はどれも読みごたえがある。興味があれば手に取ってみてほしい。
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中国語版『局外人:越轨的社会学研究』(ベッカー『アウトサイダーズ』の中国語訳)、張默雪訳、上海人民出版社、2024年。
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中国語版『区分:判断力的社会批判』(ブルデュー『ディスタンクシオン』の中国語訳)、劉暉訳、商務印書館、2015年。
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The Rise of a Jazz Art World、Paul Lopes, 2002
参考文献
本文で触れた研究と史実は、以下の文献による。史実と研究は一つずつ照合済みで、照合は2026年10月に行った。
著作と研究
- Areni, Charles S. & David Kim(1993). The Influence of Background Music on Shopping Behavior: Classical versus Top-Forty Music in a Wine Store. Advances in Consumer Research 20: 336–340.
- Arendt, Hannah(1958). The Human Condition. 中国語訳『人的境况』。
- Atkins, E. Taylor(2001). Blue Nippon: Authenticating Jazz in Japan. Duke University Press.
- Baudrillard, Jean(1970). La Société de consommation. 中国語訳『消费社会』。
- Becker, Howard S.(1963). Outsiders: Studies in the Sociology of Deviance. Free Press. 中国語訳『局外人:越轨的社会学研究』、張默雪訳、上海人民出版社、2024年。
- Becker, Howard S.(1982). Art Worlds. University of California Press.
- Bourdieu, Pierre(1979). La Distinction: Critique sociale du jugement. Éditions de Minuit. 中国語訳『区分:判断力的社会批判』、劉暉訳、商務印書館、2015年。
- Bourdieu, Pierre(1983). The Field of Cultural Production, or: The Economic World Reversed. Poetics 12(4–5): 311–356.
- DeVeaux, Scott(1991). Constructing the Jazz Tradition: Jazz Historiography. Black American Literature Forum 25(3): 525–560.
- DeVeaux, Scott(1995). Jazz in America: Who's Listening? NEA Research Division Report #31. Seven Locks Press.
- Farrer, James & Andrew David Field(2015). Shanghai Nightscapes: A Nocturnal Biography of a Global City. University of Chicago Press.
- Faulkner, Anne Shaw(1921). Does Jazz Put the Sin in Syncopation? Ladies' Home Journal, August 1921.
- Field, Andrew David(2010). Shanghai's Dancing World: Cabaret Culture and Urban Politics, 1919–1954. Chinese University Press.
- Gabbard, Krin(1996). Jammin' at the Margins: Jazz and the American Cinema. University of Chicago Press.
- Gendron, Bernard(2002). Between Montmartre and the Mudd Club: Popular Music and the Avant-Garde. University of Chicago Press.
- Gennari, John(2006). Blowin' Hot and Cool: Jazz and Its Critics. University of Chicago Press.
- Jones, Andrew F.(2001). Yellow Music: Media Culture and Colonial Modernity in the Chinese Jazz Age. Duke University Press. 中国語訳『留声中国:摩登音乐文化的形成』、宋偉航訳、台湾商務印書館、2004年。
- Leonard, Neil(1962). Jazz and the White Americans: The Acceptance of a New Art Form. University of Chicago Press.
- Levine, Lawrence W.(1988). Highbrow/Lowbrow: The Emergence of Cultural Hierarchy in America. Harvard University Press.
- Lopes, Paul(2000). Pierre Bourdieu's Fields of Cultural Production: A Case Study of Modern Jazz. In Nicholas Brown & Imre Szeman (eds.), Pierre Bourdieu: Fieldwork in Culture, 165–185. Rowman & Littlefield.
- Lopes, Paul(2002). The Rise of a Jazz Art World. Cambridge University Press.
- Lopes, Paul(2005). Signifying Deviance and Transgression: Jazz in the Popular Imagination. American Behavioral Scientist 48(11): 1468–1481.
- Marlow, Eugene(2018). Jazz in China: From Dance Hall Music to Individual Freedom of Expression. University Press of Mississippi.
- North, Adrian C., David J. Hargreaves & Jennifer McKendrick(1997). In-store Music Affects Product Choice. Nature 390: 132.
- Rentfrow, Peter J., McDonald & Oldmeadow(2009). You Are What You Listen To: Young People's Stereotypes about Music Fans. Group Processes & Intergroup Relations. ケンブリッジ大学のプレスリリース。
- Sabuncuoğlu İnanç, Ayda, Ebru Gökaliler & Ezgi Saatcıoğlu(2025). The Sound of Luxury: A Content Analysis of Hashtagged Luxury Brand Posts and Their Music on Social Media. Online Journal of Music Sciences 10(2): 175–189.
- Simmel, Georg(1904). Fashion. International Quarterly 10(1): 130–155.
- Tajfel, Henri & John Turner(1979). An Integrative Theory of Intergroup Conflict. In W. G. Austin & S. Worchel (eds.), The Social Psychology of Intergroup Relations, 33–47.
- Williams, Justin A.(2010). The Construction of Jazz Rap as High Art in Hip-Hop Music. Journal of Musicology 27(4): 435–459.
- Wilson, Stephanie(2003). The Effect of Music on Perceived Atmosphere and Purchase Intentions in a Restaurant. Psychology of Music 31(1).
その他の史実
- Minton's Playhouse;マイルス・デイヴィスが観客に背を向けていたという説をめぐる議論;We Insist!
- Hot Club de France;Down Beat;ノーステキサス大学のジャズ専攻;ニューポート・ジャズ・フェスティバル
- 1956年の「ジャズ大使」ツアー;H.Con.Res. 57(1987);Jazz at Lincoln Center;1997年ピュリッツァー賞音楽部門
- 1985年の上院公聴会記録;上海・百楽門
画像の出典
- オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの宣伝カード、パブリックドメイン
- Dancing at the Savoy Ballroom, 1936、パブリックドメイン
- Minton's Playhouse, 1947、Three Deuces, 1947、Aquarium, 1946、Coleman Hawkins と Miles Davis, 1947:ウィリアム・P・ゴットリーブ撮影、アメリカ議会図書館所蔵、撮影者の意向によりパブリックドメイン
- The Paramount, Shanghai、Tksteven 撮影、CC BY-SA 3.0
